こんにちは、もっちです。
河本清順(せいじゅん)さんが、セブンルールに登場されます。
河本清順(かわもとせいじゅん)さんは、広島県尾道に映画館を復活させた人です。
そんな河本清順(せいじゅん)さんのプロフィールや経歴、シネマ尾道(映画館)を復活させようとした理由について調べてみました。
目次
河本清順(せいじゅん)のプロフィールや経歴は?
氏名・・・河本清順(かわもとせいじゅん)
生年・・・1976年
出身地・・・広島県尾道市生まれ
河本清順(せいじゅん)さんは、尾道市内の高校を卒業後に京都に引っ越してから服飾系の専門学校に通われました。
京都は尾道と同じ映画の街とされていて、専門学校に通われているときにも、京都の映画館によく通っていました。
服飾の専門学校を卒業後には、地元、広島県の尾道に戻り、服飾関係の仕事や実家の焼き肉店で働いていました。
河本清順さんは、現在、シネマ尾道の支配人です。
開館12年目の尾道で唯一の映画館シネマ尾道を運営するNPOの代表として、朝日新聞の河本生清順のシネマチ通信や、地元経済誌などに映画のコラムを掲載したり、尾道ケーブルテレビに出演されたりと活躍されています。
河本清順(せいじゅん)の名前の由来は?
河本清順という名前、あまり聞いたことのない珍しい名前だなっと思ったのですが、この名前、映画監督の鈴木清順さんの名前からとって名付けられてそうですので、名前を付けた河本清順さんの祖父も、映画が好きな方だったと分かりますね。
川本清順(かわもとせいじゅん)が尾道の映画館“シネマ尾道”を復活させようとした理由は?
河本清順さんは、服飾関係の専門学校に行かれていましたので、服飾系の仕事が好きだと思います。
それなのに、一体どうして、尾道の映画館であるシネマ尾道を復活させたのかが気になります。
映画の街と呼ばれていたくらい、映画館がたくさんあった尾道、全盛期のころには、市内には映画館が、町の中になんと11か所もあったそうです。
ですが、20年前の2001年にはその11か所あった映画館の全てが無くなってしまったのです。
河本清順さんは、小さな頃から映画に慣れ親しんできていました。
それが2001年、河本清順さんが24歳の時に、町の中にある映画館が0になってしまったということに。
それで河本清順さんは、尾道に映画館を復活させようと。2700万円もの建設費を集めて7年後の2008年にシネマ尾道をオープンさせることができました。
小さな頃から身近にあった街の映画館が全て無くなってしまったということで、河本清順さんは尾道に映画館を復活させようと思ったようですが、きっと、尾道に住んでいる人たちは尾道に映画館が全くなくなってしまったことに対して悲しかったのではないかと思います。
きっと河本清順さんのように、小さな頃から映画に慣れ親しんできた人たちは尾道にたくさんいたのではないかと思います。
そんな人たちの想いも受けながら、河本清順さんは尾道に映画館である“シネマ尾道”を復活させることができたのではないでしょうか。
河本清順(せいじゅん)のプロフィールや経歴、シネマ尾道(映画館)を復活させようとした理由は?のまとめ
河本清順さんがセブンルールに出演されるということで、河本清順さんのプロフィールや経歴、どうして河本清順さんは尾道の映画館を復活させようと思ったのかについて調べてみると、河本清順さんは、小さな頃から映画が好きで、地元の尾道で映画に慣れ親しんできていました。
服飾の専門学校に通っていて、服飾関係の仕事に就くことに憧れていたと思うのですが、24歳の時に生まれ育った広島の尾道に映画館が無くなってしまったことで、人生ががらりと変わりました。
それにしても24歳の女性が映画館を復活させるために2700万円もの資金を集めて、映画館復活を現実にするだなんてすごいことですよね。
河本清順さんは現在は尾道の映画館“シネマ尾道”の支配人として活躍をされています。
強い思いがあれば、無謀とも思えるようなことでも叶えることができるのだなと思いました。
現在は、コロナ渦の中で大変ではあるかと思いますが、河本清順さんはこれからもシネマ尾道のために頑張っていかれると思いますので、これから応援していきたいと思います。
それでは最後までお読み頂きまして有難うございました。
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