こんにちは、もっちです。
今回の情熱大陸にはバレエでプリンシパルになったという倉永美沙
倉永美沙さんが世界的なバレエのバレリーナの人というのですがどうしてバレエを始めたのか、きっかけや倉永美沙さんがトレーニングマシンと呼ばれている由来について調べてみました。
目次
倉永美沙(バレリーナ)の経歴やプロフィール
それでは、まず倉永美沙さんの経歴やプロフィールについてお話ししていきます。
氏名:倉永美沙(くらながみさ)
生年月日:1983年 現在35歳
出身スクール:地主薫エコール・ド・バレエ
留学先:School of Ameican Ballet
1990年、7歳のときにバレエを始めて、1993年にボリショイ劇場で踊る。
1997年、東京新聞主催全国舞踊バレエコンクール第一位、2001年、17歳のときに、第29回ローザンヌ国際バレエコンクールで、プロフェッショナル研修賞を受賞されました。
それから研修で、サンフランシスコバレエ団に行きました。
2001年には、第9回、モスクワ国際バレエコンクールの女子ジュニア部門日本初で金賞を受賞されました。
2001年にサンフランシスコバレエ団の研修生のあとは、ニューヨーク・シテイ・バレエ団の付属スクールで学びました。
2003年、倉永美沙さんが19歳のときにボストンバレエ団に入団
2005年にはセカンドソリストに昇格されました
2006年に、ジャクソン国際バレエコンクールのゴールドメダルを受賞されました。これは女性シニア部門で日本初です。
2007年にはソリストに昇格されました。
2009年に、プリンシパルへと昇格をされました。
2019年には、プリンシパルとしてアメリカで最古となるバレエ団である、サンフランシスコ・バレエ団と契約を結ばれました。
倉永美沙(バレリーナ)がバレエを始めたきっかけは?
倉永美沙さんがバレエを始めたきっかけがきになって調べてみました。
倉永美沙さんは、幼稚園の時には、今のきれいな姿からは想像もつかないような、問題児だったそうです。
幼稚園の先生からは要注意人物として一番最初に名前を憶えられた程だったんだそうです。まったく想像できませんよね。
そんな倉永美沙さん、どうして、おとなしく座っていないといけないのか、ということを疑問に思ったりして、こっそりと教室を抜けたりして、近くの広場で走り回っていたのださおうです。
なにかに興味を持つとそこに一人で行ってしまうような子どもで、迷子としてアナウンサーされるときにも、自分の本名を言わないで、偽名を使って、わざと見つかりにくくなるような子どもだったんだそうです。
そんな有り余っているエネルギーを母がどうにかしようと考えていたそう。
倉永美沙さんがバレエに出合ったのは幼稚園の時、幼稚園のお遊戯を率先して踊っていた倉永美沙さんなのですが、バレエを習っている他の子が踊りは私たちの方が知っているもんねと、いう姿を見せつけられて、そこの悔しさからバレエを始めたくなったんだそう。
きっかけは持ち前の競争心でバレエを始めたようです。
母親は、新体操は良いけれど、バレエはダメと言っていたそうなのですが、母親に何回もお願いして、1ヶ月くらいならとバレエをさせてくれるようになりました。
倉永美沙(バレエ)がトレーニングマシンと呼ばれる由来は?
倉永美沙美沙さんはトレーニングマシンと言われているそうなのですが
レッスンが終わった後も練習の鬼となり、
それにしてもトレーニングマシンとまで言われるほど練習をして積
イチロー選手などもそうですが、
継続し続ける精神力を見習いたいものです。
倉永美沙(バレリーナ)がバレエを始めたきっかけやトレーニングマシンと呼ばれる由来は?のまとめ
倉永美沙さんがバレエを始めたきっかけやトレーニングマシンと呼ばれる由来について調べてみたのですが、世界的に活躍をするようになるまでには、精神的な強さというのが必要なんだなということが分かりました。
幼い頃から競争心が強く、人一倍負けん気が強いからこそ、プリンシパルと呼ばれる、団の中で一番トップまで上りつめることができたのではないでしょうか。
トレーニングマシンとあだ名になるほどの努力を積み重
小さな頃からの努力が身を結んだんですね。
自分でこれほどまでに打ち込むことができるなにかを見つけて、
そんな倉石美沙さんをこれから応援していきたいと思います。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
こちらも合わせてお読みください↓↓
柴田千代(チーズ)のプロフィールやチーズ職人になったきっかけは?営業日が月イチだけで生活はできるのか?【情熱大陸】
塩谷歩波(えんやほなみ)のプロフィールや銭湯イラストレーターになったきっかけ【情熱大陸】
コメントを残す