こんにちは、もっちです。
情熱大陸に粟田純徳(あわたすみのり)さんが登場されます。
粟田純徳(あわたすみのり)さんは穴太衆(あのうしゅう)の石工として働いています。
そんな穴太衆(あのうしゅう)の石工とはどういったお仕事をされているのか、穴太衆(あのうしゅう)とは一体なになのか?
そして、穴太衆(あのうしゅう)の石工の人たちが携わってきたお城はどんなお城があるのかについて調べてみました。
目次
粟田純徳(あわたすみのり)のプロフィールは?
それではまず、粟田純徳(あわたすみのり)さんのプロフィールについてみていきたいと思います。
氏名・・・粟田純徳(あわたすみのり)
生年・・・1968年
出生地・・・滋賀県生まれ
地元の中学校を卒業後すぐに、祖父である粟田万喜三氏に師事していて、2005年に14代目の父、粟田純司より会社を受け継ぎ15代目を継承されました。
古い時代から、代々受け継がれてるお仕事なのですね。
現在は、株式会社粟田建設代表取締役として活動をされています。
趣味は、サッカー教室に通う息子の試合観戦したり、仕事終わりの一杯が至福のひとときなんだそうです。
きっと次は、息子さんが粟田純徳(あわたすみのり)さんのお仕事を継がれていって、穴太工(あのうこう)の技術を代々受け継いでいかれるのだと思います。
珍しい職種だからこそ廃れることなく受け継いでいってほしいものですよね。
石工の穴太衆(あのうしゅう)とは?
穴太衆(あのうしゅう)という言葉、私ははじめて聞いた名前なのですが、一体何なのでしょうか。
穴太衆(あのうしゅう)は石の職人のことで、滋賀県の琵琶湖の西岸の穴太(あのう)というところの住んでいた石の職人さんたちの呼び名です。
安土城の石垣を積んだ穴太衆(あのうしゅう)の技術が素晴らしいものがあって、お城を作る上で、穴太衆(あのうしゅう)の存在は不可欠になり、石工といえば穴太衆(あのうしゅう)とまで呼ばれるようになったそうです。
ですので、滋賀県の琵琶湖の西岸の穴太(あのう)に住んでいなくても石工の人のことを穴太衆(あのうしゅう)と呼ぶようになったそうです。
それだけ安土城での石積みが素晴らしく、その後のお城を作る上での欠かせない存在となっていたのですね。
その時に穴太衆(あのうしゅう)が積んだ石垣の積み方を穴太積(あのうづみ)と呼ばれています。
石工の穴太衆(あのうしゅう)が関わったお城は?
粟田家では比叡山延暦寺の石積みの仕事を代々請け負ってきたり、竹田城や篠山城、安土城や彦根城、高知城や洲本城などのお城の石垣の補修などを手掛けています。
一説によりますと、近世城郭の約8割を穴太衆(あのうしゅう)が手掛けていたと言われています。
いろいろなお城に行ったことはあるのですが、石について深く見たことがなかったのですが、石を積むことにも深い技術が必要で、石積みを専門とした職業の人もいるのだということを知りました。
考えてみると、石を積むということでも技術がないと、すぐに崩れてしまうと思いますので、技術が必要なのですね。
何百年もたっているお城の石積みが今でもそのままの姿で石積みされている状態というのんは、それだけ石積みの技術が素晴らしいものだったからなのでしょうね。
きっとこれから先の未来もお城の石積みは残っていくのだと思います。
粟田純徳(あわたすみのり)石工の穴太衆(あのうしゅう)が石積みしたお城は?のまとめ
情熱大陸に粟田純徳(あわたすみのり)さんが登場されるということで、粟田純徳(あわたすみのり)さんがどういった人なのか、プロフィールや経歴、穴太衆(あのうしゅう)が石積みしたお城などについて調べてみました。
粟田純徳(あわたすみのり)さんが代々継承されている穴太衆のお仕事、現在の世の中では、お城を建てるということはないので、昔のお城の石積みなどの修復作業をされたりというお仕事が多いようです。
今まではお城を見ることはあっても、石積みはそんなにも興味をもってみたことがないのでこれからお城を見るときには、石積みについても見ていきたいと思います。
これから先の未来も、穴太工(あのうこう)という技術が受け継がれていって、ずっと世の中に残っていってほしいと思いました。
それでは最後までお読み頂きましてありがとうございました。
こちらも合わせてお読みください↓↓
近藤文夫(天ぷら職人)のプロフィールやてんぷら近藤のお店の場所はどこ?【情熱大陸】
田丸雅智 又吉も絶賛のショートショート作家!小説のアイデアはどうやって?【情熱大陸】
コメントを残す